2010年12月31日
タイ語表現5
「Sawadii pii mai」タイ語で新年おめでとう。タイでの年賀状はクリスマスカードと合わせて送付する。また時間にはおおらかな国。日本では年賀状は元旦に受け取ってこそ意味がある感があるが、タイではクリスマスの頃からちらほら届く。「Merry Chrismas and Happy New Year 」とタイプされたカードに手書きで「Koo hai khun A mii kwaam suk troot pai」「A さんがずっと幸せでありますよう」)などと書いて送ってくる。最初は私もそれを生真面目にまねてタイ人の友人に送付していた。そのうち型どおりの文章を何通も書いているとつまらないと感じるようになった。そこで趣向を凝らして親しいタイ人の友人には「Nai pii nii koo hai khun B mii feen suai suai(ruubroo)」「今年は B さんに美しい(かっこの良い)恋人ができますように。」などと書きそえて年賀状を送っていた。
2010年12月31日
ラオスのムアンシンにて
ラオス北部ルアンプラバンからピックアップトラックに乗って、砂利道を揺られながら3時間程でムアンシンという町に叔父と行ってきた。叔父が文明に毒されていない少数民族の生活を見てみたいとのことで、そこまで行けば叔父が期待しているような村があるだろうとのことでそこへ行くことを決めた。ムアンシンの町から郊外に出かけ、ある村にたどりついた。そこで知り合った気さくな若者が自分の家に案内してくれた。案内してくれた家は電気水道のない茅葺きの家だった。家の中はびっくりするくらいものがなく、がらんとしていた。囲炉裏の周りに木製の椅子(椅子と言ってもお風呂にあるような小さなもの)があり、そこで休むように促された。そしてびっくりするくらいまずいお米(失礼)を食べるように勧めてくれた。食べないと失礼だと考え、叔父と二人で無理矢理そのお米をほうばった。贅沢な日本人から見てお粗末な食べ物でも、現地の人にとっては貴重な食料であろうから。
ムアンシンという町は、高い山に囲まれた盆地にあり、日の出が遅く日の入りが早かった。明確な時間は定かでないが日の出午前8時日の入り午後4時といった感じだった記憶がある。その上、昼間はとても暑く夜はセーターが必要なくらい寒くなる。寝袋にくるまり震えながら寝た記憶がある。少数民族の家にはお昼に行ったが、夜の生活を思い浮かべた。電気がないこの家では囲炉裏の周りに家族皆が集い、一つの炎を見ながら時間を過ごしているのだろうと。過酷な自然環境の中で生きるには皆が助け合い寄り添って生きなくてはならないのだ。今の日本は物質的に豊かになったが、代わりに失ったものもあると思う。核家族化が進み、また各人が夜には個室にこもる。子供はゲームに没頭。そして親を殺す子供や子供を虐待する親も出現。一方物質的には豊かではないが、この村では皆が助け合い生きていることだろう。「幸せとは何なのだろう」と考えされられた一日だった。
ムアンシンという町は、高い山に囲まれた盆地にあり、日の出が遅く日の入りが早かった。明確な時間は定かでないが日の出午前8時日の入り午後4時といった感じだった記憶がある。その上、昼間はとても暑く夜はセーターが必要なくらい寒くなる。寝袋にくるまり震えながら寝た記憶がある。少数民族の家にはお昼に行ったが、夜の生活を思い浮かべた。電気がないこの家では囲炉裏の周りに家族皆が集い、一つの炎を見ながら時間を過ごしているのだろうと。過酷な自然環境の中で生きるには皆が助け合い寄り添って生きなくてはならないのだ。今の日本は物質的に豊かになったが、代わりに失ったものもあると思う。核家族化が進み、また各人が夜には個室にこもる。子供はゲームに没頭。そして親を殺す子供や子供を虐待する親も出現。一方物質的には豊かではないが、この村では皆が助け合い生きていることだろう。「幸せとは何なのだろう」と考えされられた一日だった。
2010年12月30日
タイ語表現4
タイ語に「Pop kan chaat naa」という表現がある。直訳すると「来生で会いましょう。」輪廻転生を信じている人が多いタイならでは表現だ。使い方は大きく分けて二通り。一つは再び会えないかもしれない大事な人との別れに際し、来生での再会を祈って使う。もう一つは二度と顔を見たくない相手との別れ際に使う、痛烈な別れ言葉として使う。
仏教が廃れた日本で育ったため「輪廻転生」を信じていなかった。それが何年かタイで過ごすうちに「輪廻転生」はあるのかもと思うようになった。初めて会ったのにインスピレーションを感じる人に出会うことがある。そんな人とは前世おいて何らかの関わりがあったのかもしれない。また初めて行った場所なのに、来たことがある気がする。そんな場所には前世で来たことがあるかもしれない。そう自然に受け止められるようになった。人生って「Atsachan」(不思議)。
仏教が廃れた日本で育ったため「輪廻転生」を信じていなかった。それが何年かタイで過ごすうちに「輪廻転生」はあるのかもと思うようになった。初めて会ったのにインスピレーションを感じる人に出会うことがある。そんな人とは前世おいて何らかの関わりがあったのかもしれない。また初めて行った場所なのに、来たことがある気がする。そんな場所には前世で来たことがあるかもしれない。そう自然に受け止められるようになった。人生って「Atsachan」(不思議)。